カンヌ国際映画祭のマーケット「マルシェ・ドゥ・フィルム」の「Investors Circle」のキーノートセッションに、ファーストリテイリング取締役・グループ上席執行役員の柳井康治氏が登壇した。モデレーターはジャーナリストのWendy Mitchell氏が務めた。
Investors Circleは、世界の投資家と映画製作者をつなぐ場として4年前にマルシェがスタートさせたプログラムだ。昨年のピッチではルーカス・ドン監督『Coward』、マリー・クロイツァー監督『Gentle Monster』が披露され、いずれも今年のカンヌのコンペティション部門に並んでいる。今回のテーマは「ブランドはどう映画製作に関わるのか」。『PERFECT DAYS』のプロデューサーとしても知られる柳井氏が、自身の考え方を語った。
渋谷の公衆トイレが映画になった理由
口火を切ったのは、2018年に柳井氏が個人プロジェクトとして立ち上げた「THE TOKYO TOILET」の話だった。きっかけは2020年の東京オリンピック。海外から訪れる人々に「日本は素晴らしい国だ」と感じてもらえるよう、自分なりのおもてなしを形にしたかったのだという。
ユニクロ創業家の一員として育った柳井氏が指針としてきたのは「Made for All」というブランド哲学である。国籍も性別も宗教も政治も問わず、誰の役にも立つものを作る、という考え方だ。日本食、日本車、日本の時計——候補をいくつも検討した末に行き着いた答えが「日本のトイレ」だった。
「仕事柄、世界中を旅してきたが、日本のトイレの質は他国を圧倒的に上回っている。忙しいときに昼食や夕食を抜くことはあっても、トイレに行かない日は一日もない。公衆トイレはその社会の水準を映す鏡であり、街が人をどれだけ大切にしているかを示している」

16人のクリエイターやデザイナーを招き、渋谷区内の公衆トイレを一新。現在は17カ所に美しい公衆トイレが完成している。
プロジェクトを進めるうちに、柳井氏はある問いに突き当たった。この美しい空間を清潔に保っているのは誰なのか。答えは清掃員だった。彼らは街とコミュニティを支えているのに、社会のなかでは「見えない存在」になっている。
「見えないものを、見えるようにしなければならない」。この思いから、清掃員を主役にした短編映画の構想が芽生えた。
脚本もアイデアも固まらない段階で、柳井氏は長年敬愛してきた俳優・役所広司氏に直接会いに行き、「トイレ清掃員を演じてほしい」と依頼した。共同脚本・共同プロデューサーの高崎卓馬氏とも、「ベストキャストは役所さん以外にいない」という点では迷いがなかったという。
次に柳井氏が手紙を書いた相手が、ヴィム・ヴェンダース監督だった。公衆トイレを題材にした短編を撮ってほしい——その依頼にヴェンダースは快諾し、こう告げたという。「これは短編ではなく、長編にすべきだ」。こうして『PERFECT DAYS』が生まれた。
3年前のカンヌ国際映画祭コンペティション部門で本作はエキュメニカル審査員賞を受賞、役所広司氏は男優賞を獲得した。アカデミー賞国際長編映画賞にもノミネートされ、世界およそ90の国と地域で公開されている。
「最初から利益のために作った映画ではない。社会的インパクトと社会的善に正直に向き合った結果として、成功につながった。映画の成功そのものは、私たちのゴールではなかった」と柳井氏は振り返る。
「映画の専門家ではない」ことの強み
セッションを通じて柳井氏が繰り返したのは、「自分は映画の専門家ではない」という一言だった。
「専門家ではないからこそ、映画はユニクロの第一優先にはならない。我々の最優先は社会的インパクトと社会課題の解決だ。そこに正直に向き合ったときに、強い力が生まれる」
『PERFECT DAYS』は商業目的で設計された作品ではない。だからこそエキュメニカル審査員賞という形で評価された——というのが柳井氏の見立てだ。
「もちろん企業として利益は必要だ。ただ、短期利益に焦点を当てれば、ブランドはすぐに消費され、忘れられてしまう。我々は世界で最も愛され、信頼されるブランドになりたい。衣服にも映画にも、世界を変える力があると信じている」

『PERFECT DAYS』がイタリアでヒットした理由
対談に入ると、Mitchell氏は『PERFECT DAYS』のグローバル展開について踏み込んだ。柳井氏は、マーケティング戦略にユニクロでの経験が生きたと明かす。
「作品自体は静かで控えめなトーンだった。それでもできるだけ多くの観客に届けるためには、大きな声で叫ばなければならない。だからプロモーションには相当な予算を投じた。これはユニクロから学んだことだ」
興行面で意外だったのは、日本以外で最大の興行収入を記録したのがイタリアだったことだという。「当初は、なぜイタリア人がこの映画を愛してくれるのか理解できなかった。ただ、考えてみれば日本とイタリアには共通点が多い。職人技を愛し、食を愛し、文化を愛し、デザインや建築を愛する。そうした感性が興行成績に反映されたのだろう」

ユニクロの難民支援と「難民映画基金」
ユニクロは現在、世界で2,500店舗以上を展開するグローバルブランドだ。
「世界平和なくして持続可能なビジネスはない。サステナビリティ活動はオプションではなく、ブランドとしての責任だ」と柳井氏は語る。
ユニクロが最も長く続けている取り組みのひとつが、難民支援である。店頭で顧客から回収した衣料は、毎年およそ500万着が世界の難民のもとへ届けられてきた。資金面でも、これまでに6,000万ユーロ近くを拠出している。柳井氏が支援を始めた2001年当時、世界の難民人口は3,000万~4,000万人だった。それが現在ではおよそ1億1,500万人にまで膨れ上がっている。
2023年12月、ジュネーブで開かれた「グローバル難民フォーラム」に出席した柳井氏は、ケイト・ブランシェット氏や、難民出身の俳優キー・ホイ・クァン氏らと対話している。難民の物語が常に「暗く悲しいトーン」で語られがちだという話題から、「彼ら自身の物語をメインストリームに届けるには、映画こそ有効な手段ではないか」という議論が生まれた。
そこから生まれたのが「Displacement Film Fund(難民映画基金)」である。難民のバックグラウンドを持つ5人の映画作家による短編製作を支え、ロッテルダム国際映画祭でプレミア上映を実現した。ユニクロは資金提供パートナーのひとつとして参加している。
柳井氏は強調する。「これはブランデッドフィルムではない。我々の支援には、作品の権利が伴わない。物語も権利も、すべて映画作家の手元に残る」
カンヌ国際映画祭の協力により、2024年からこの取り組みはカンヌでも紹介されており、今年は新たな5人の映画作家が発表された。
難民に「機会」を渡すということ
セッションの終盤、Mitchell氏が尋ねた。「なぜ難民に衣服や住居を提供するだけでなく、彼ら自身に物語を語る機会を与えることが重要なのか」

柳井氏は、バングラデシュの難民キャンプを訪れたときの経験を語った。100万人の難民が一カ所で暮らすその場所で、自分と同世代の人々の姿を数多く目にしたという。
「私は日本に生まれ、東京で育ち、ある意味で甘やかされて生きてきた。だが彼らも、難民になる前は仕事があり、教育を受け、家があり、才能があった。難民の中には信じられないほど才能のある映画作家、脚本家、俳優、歌手がいる。彼らをメインストリームに引き上げたい」
「お金を渡すだけでは足りない。機会を渡さなければならない。難民映画基金は、才能と機会、そして人間としての尊厳に純粋に焦点を当てている。ロッテルダムでのプレミア上映の場の空気は、信じがたいものだった。観客は皆心を動かされていたし、映画作家自身も観客の反応に心を動かされていた。あの瞬間は、映画にしか作り出せないものだ」
スピーチを柳井氏は、ファーストリテイリングのコーポレートミッションで締めくくった。「服を変え、常識を変え、世界を変える」。そして映画には、世界をより良い場所に変える力があるという確信を柳井氏が語りセッションは幕を閉じた。












